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高橋由一「鮭」の解説【近代洋画のパイオニアで連続起業家】画塾経営や国産油絵の具開発の後押しも

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高橋由一(1828年~1894年)
代表作「鮭」

こんにちは、画家の佐藤功です。

高橋由一は、本格的な油絵技法を熱心に研究し、
江戸末期から明治まで活躍して
日本で近代洋画の基礎を作った画家といわれています。

油絵を学んだことがある人ではなくても、
下の代表作「鮭」は見たことがあると思います。



代表作「鮭」は、
高橋由一50歳の頃に描かれました。

「鮭」は、由一の作品の中でも抜きん出て上手く
(他の作品はそこまでではないです (^^;)

筆致は、東洋画などで学んだ技術を使った形跡があります。
具体的には、鮭の尾びれなど、
濃淡2種の絵の具を同時に含ませた筆で一気に描き、
陰影や立体感を表す「つけたて」という技法が使われていたり、
また意図的に筆致をかすれさせる、などが見られます。

「鮭」は、東京藝術大学美術館に収蔵されていますが、
私が実物を見たときは、
非常に物質感というか実在感があり、重厚な印象でした。
また、生き物の鮭というより、物質としての鮭という感じがしました。

重要文化財にも指定されている「鮭」は、
洋画と東洋の技法を折衷した
リアリズム絵画といえるのではないでしょうか。

<あわせて読みたい>
〇【有名絵画】30作品を画家が厳選「ゴッホの【ひまわり】は光輝くような黄色、存在感」など 

次に、高橋由一の生涯について書いていますが、近代洋画のパイオニアという面だけでなく、画塾への女性入門者の多数受け入れや、国産の油絵の具開発を後押し、絵画コンテストの開催・販売など、先進的で連続起業家のような面もみせています。


高橋由一の連続起業家的な生涯

2歳で初めて人面を描く。母驚く

高橋由一は、1828年に生まれ、
2歳で、初めて人面を描いた。
その時、母が驚いてその画才に将来を期待したのだという。

12~13歳の頃、狩野派の絵師に学んだことが
絵画修行の第一歩とされ、
何人かの伝統的な絵師に学んでいます。
師が何人か変わったのは、師に不満があったり、絵以外の勉強が忙しかった為、絵の勉強ができなくなったからのようです。このことから、由一はかなり気が強かったことがわかります。

由一は、狩野派の絵師としても、しっかりとした実績があり、
20歳の頃には、東京の広尾神社に
墨で描いた龍の天井画を描いています。
この天井画は現在でも拝観できますよ。


広尾神社「天井墨龍図」 高橋由一


高橋由一の生涯については、書籍「狩野芳崖・高橋由一:日本画も西洋画も帰する処は同一の処 (ミネルヴァ日本評伝選)」に書かれています。同時代を生きた日本画の狩野芳崖との比較で書かれており、新しく西洋から入ってきた油絵を普及しようとする高橋由一と、従来の日本画を継承する狩野芳崖との対比が興味深い内容です。

洋製石版画にショックを受け、洋画を志す

その後、師から離れ、
洋画に目覚めるまで、独学を続けていきます。

由一が洋画に目覚めたのは、
洋製石版画に触れる機会があった
20代半ばの頃。
この時、由一は、その迫真さにショックを受け、洋画を勉強しようと心に決めました。



由一が見た石版画は、戦争の場面を制作したもののようですが、正確にはわかっていません。上の石版画は、私が、由一が見たであろう石版画に、画像的に近いと思うものを掲載しています。

由一がショックを受けた迫真さとは、上の石版画のように、精度の高い透視図法に基づいた遠近表現や、立体的な表現のことだと考えています。いわゆる3Dでリアルな描写のことです。

当時までの日本画は、遠景をぼかす空気遠近法で描かれていたり、また、線で形を描いて着色するように、立体的なものを平面的にデフォルメしているといえる表現がほとんどでした(私の知る限り、日本画は、透視図法による遠近法で描かれているものは、少ない)。ですので、対極にある西洋の表現に、由一はショックを受けたと思われます。

これは洋画、日本画の良し悪しを言っているのではないですよ。表現方法の違いです(^^

洋画を志すことにした由一ですが、開国当時の日本では、洋画の教科書もなく、先生もいなく、洋画の本格的な勉強までは10年を待つことになります。


1862年、由一が35歳、西洋画研究機関である洋書調所 画学局に入局し、本格的な洋画研究を始めます。ただ、画学局と言っても十分な資料がなく、油絵の具すらない状態で、オランダの訳書から遠近法や明暗法を学ぶのが、やっとのこと。


「丁髷姿の自画像」油彩 (1866-1867年) 高橋由一


そこで由一は、日本に滞在している西洋人の画家を懸命に探します。そして、ニュース記者、兼、報道画家のワーグマンを見つけ出しました。ワーグマンに熱心に師事を仰いで、やっと油絵の手ほどきを受けることになります。油絵の技法については、画学局よりワーグマンから学んだようです。

上の由一の自画像と、下のワーグマンの絵を比べれば、タッチや黒の使い方が似ている気もしますね(^^


「飴売り」 油彩 (1877年) チャールズ・ワーグマン

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画塾を設立して盛況

1873年、由一は、自身の画塾「天絵社」を構えて、塾生をとるようになりました。この画塾には、女性入門者も多数受け入れていることや、当時輸入に頼っていた油絵の具が、常に不足して、高額であったことから、国産の油絵の具開発を後押ししていました。

また、画塾の教員、塾生の絵画コンテストを毎月開催して、販売もしていたようです。これが各新聞に掲載されるほど話題になって、洋画を世に広める大きな効果が得ていました。

さらに絵画コンテストが順調であったため、展示場として、美術館建設を発想していました。らせん状の奇想天外な建物を構想していたようですが、残念ながらこれは実現できていませんが。

このことから、由一は、日本における油絵の普及に非常に熱心だった、だけではなく、先進的な考えで、様々なチャレンジをして実績を上げています。今でいう連続起業家の精神を持っていたのだと思います。

また、この数年後1876年、イタリア人画家 フォンタネージとの知遇を得ており、画室を訪ねるなどの親密な交流を持っています。フォンタネージの制作の様子も見せてもらっているので、そこで指導も受けていたようです。また、由一の息子の源吉も、直接フォンタネージから指導を受けています。


「朝」アントニオ・フォンタネージ


洋画不遇の時期

由一の洋画の普及事業が順調に進んでいたのは、当時の文明開化や西洋型近代化など時代の後押しがあったからだといえます。

この洋画の順調な流れに対して、狩野派絵師の狩野芳崖、東洋美術史家のフェノロサが中心となって、洋画を排斥して、日本画を推進しようとする動きがでてきます。フェノロサは、1882年に刊行された「美術真説」の中で洋画排斥、日本画優位を論じています。

その後、行政も洋画を冷遇し、公設展では、油絵の出品は拒否されることになり、また、日本で初めて洋画を教える工部美術学校も1884年に廃校。

洋画不遇の時期はしばらく続きます。

1889年、東京美術学校(現東京芸術大学)開設となりますが、日本画科と木彫科のみ。


由一は、この洋画不遇の時期に、公的な仕事(肖像画、土木事業や風景の記録絵画など)を請け負っていました。しかし、本心では洋画拡張事業を進めたく、仕事を請け負った県令(県知事)に事業のサポートをかけあっています。

それから、洋画は低迷したまま、由一は、洋画の拡張事業を進めることはなく、1894年逝去。67歳。子供たちに囲まれた最後だったとのことなので、家庭的には恵まれていたようです。


このころには、欧州留学で、洋画の高い技術力を修得した若い世代が台頭してきており、由一とは技術的に決定的な差ができていました・・・

由一が他界してから2年後の1896年
東京美術学校に西洋画科が新設されて、留学組の黒田清輝などが教員として就任し、その後の日本洋画界を牽引していくことになります。



「湖畔」油彩(1897年)黒田清輝 

高橋由一の生涯については、書籍「狩野芳崖・高橋由一:日本画も西洋画も帰する処は同一の処 (ミネルヴァ日本評伝選)」に書かれています。同時代を生きた日本画の狩野芳崖との比較で書かれており、新しく西洋から入ってきた油絵を普及しようとする高橋由一と、従来の日本画を継承する狩野芳崖との対比が興味深い内容です。


まとめと考察(雑感

高橋由一は、1人の画家として洋画を探求するだけではなく、事業家のように様々な事業を通して、洋画を一般に広めようとしました。このことにより、由一は多くの人材や政治などにも深くかかわって、洋画を普及させる土台を作ったといえます。


現代の画家の私からすると、当時の洋画排斥、日本画優位という一時的な流れについて、大げさだなぁ、洋画・日本画、両方共存していて良いし、どちらか一方を排斥することはないだろう、と思ってしまいます。

しかし、当時の状況を考えると、文明開化により急速に西洋の制度・知識・文化が入ってきて、その流れで西洋画が勢いを持ってくると、古来からの日本の絵画が軽視される、潰されてしまうという危機感を持つのは必然だったのでしょうね。鎖国により、日本の価値観全体に大きな変化が長い間なかったことも大きいと思いますし。伝統的な狩野派の絵師(狩野芳崖)、日本画ファン(フェノロサ)の立場だったらなおさらです。

現代は、世界中から様々な情報が大量に入ってきて、多様な価値観が共存しています。そして、多様な価値観が影響しあって、さらに発展していく時代になっています。絵画も、日本画、洋画、といった対立的な分類自体が、あいまいになり、そのうち無くなっていくと思っています。洋画は日本画の良いところを取り入れて、その逆もあり、そうして絵画の世界もさらに発展していく。究極的にいうと、絵画ジャンルの分類は希薄になり、Aさんの絵、Bさんの絵といった感じになるのですかね。

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