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ヨハネス・フェルメールの生い立ち,死因|フェルメールブルーとは?代表作「真珠の耳飾りの少女」で有名

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代表作「真珠の耳飾りの少女」でも有名なヨハネス・フェルメール

こんにちは、画家の佐藤功です。

静謐で写実的、美しい光の表現が印象深い
画家ヨハネス・フェルメール(1632年~1675年)。
代表作「真珠の耳飾りの少女」や「牛乳を注ぐ女」でも有名です。



写実系の画家であれば、必ず研究する画家といってよいかもしれません。私も画学生時代に画集を見まくったり、模写したり、などしていました。また、フェルメール作品の技術的な部分だけではなく、どのような画家で、どういう生涯だったのか、という部分も興味があって調べたりしていました。そうすると、作品の理解も、より深まります。

美術館などで絵画鑑賞するときにも、画家の生い立ちや私生活、人間性、どういう背景で絵が描かれたのか、がわかれば、より楽しめると思います。また、現在フェルメールは世界的にも有名で、評価を得ていますが、生前も高い評価を得ていたようです。ただ、死後の認知度・評価は浮き沈みがあるようです。最後にまとめています。

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美術館|画家の視点で、おすすめの鑑賞の仕方|興味のない絵は、1秒だけ見ればよい(絵画)

フェルメールの生い立ち

フェルメール、その生涯はどのようなものだったのでしょうか。

1632年ヨハネス・フェルメールは、
オランダの小さな水の街デルフトに生まれます。
そして、生涯デルフトで画家としての人生を全うします。

デルフト眺望 (1660-1661年)  油彩 ヨハネス・フェルメール


フェルメールの生家と修業時代

フェルメールの生家は、織物業と宿屋(兼 酒場)でしたが、
そこでは画商も営んでいました。
そのため、フェルメールは、
少年時代から絵画に接する機会が多く
自然に画家を志したようです。

当時、子供を画家にするには、すごくお金がかかりました。
修行にだせば、年間授業料が200ギルダーぐらい必要で
この金額は、普通の単純労働者の年収並です。

このことから、フェルメールの家は、わりあい裕福だったようです。

ちなみにフェルメールの修行時代の師匠は、諸説ありますが、
クリスティアーン・ファン・カウエンベルフ
という画家が有力です。
この画家のもとで、6年間の修行をしたと思われます。

20歳で結婚、画家として出発

そして、20歳でカタリーナ・ボルネスという女性と結婚したフェルメールは、
その8ヵ月後に「聖ルカ組合」に親方画家として登録しています。
これにより、一人前の画家として活動できることになりました。

当時、「聖ルカ組合」に親方画家として登録するには、いずれかの画家に師事して6年間の修行期間が必要でした。現在の美術大学+大学院の6年間と一致します。昔から、絵の修行には、そのくらいの期間が合理的なのかもしれませんね。

※私自身のことでいうと、夜間部の美術学校に3年間学びましたが、かなり短く感じました。卒業後も独学を続けていました。絵を学んである程度の技術を修得するには、少なくとも4年~6年はかかるかもしれません。


「聖ルカ組合」に加入すると、得ることができる権利には、

  1. 自作に署名すること
  2. デルフト市内で自由に作品を売買すること
  3. 弟子をとること

の3つがあります。


結婚後、フェルメールは、
裕福であった妻の実家(義母の家)で暮らすようになり、
ここで、数々の傑作が生みだされていきます。

妻の実家で暮らすようになったのは、
親方画家として独り立ちしたからといって
すぐに収入に結びつくわけではないことと、
14人の子供にも恵まれて、
経済的問題が理由のようです。


父の死後、家業を継ぎ、宿屋、画商の経営に乗りだす

父親の死後は、実家の家業を継いで、
宿屋(兼 酒場)、画商の経営に乗り出しています。

こういった収入やパトロン、先述の裕福な義母などのおかげで、
当時純金と同じほど高価だったラピスラズリを原料とする
ウルトラマリンを惜しげもなく絵に使用でき、
また、画家として、年間2~3作という寡作でも問題ありませんでした。

作品の売買だけが収入源だと、たくさんの作品を制作をしなければならないので、現在評価されているような、1点1点時間をかけた丁寧な作品はできていなかったかもしれませんね。

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フェルメールブルーとは

前述のラピスラズリを原料とするウルトラマリンで描かれた鮮やかな青は、フェルメール・ブルーと呼ばれて、以下「牛乳を注ぐ女」のように、いくつもの作品で使用されています。

牛乳を注ぐ女 (1658-1660年)  油彩 ヨハネス・フェルメール


生前のフェルメールの評価

当時、フェルメールの画家としての評価を
伺わせるエピソードとして、

「聖ルカ組合」の理事(任期2年)に
史上最年少の30歳で就任していることがあり、
38歳頃にも再度理事に就任しています。

このことから、フェルメールは、
当時から画家として相当高い評価を得ていたことがわかります。


絵画市場の低迷などにより、負債を抱える

1670年代になると、
画家、兼、画商であるフェルメールにとって、冬の時代が始まりました。

第3次英蘭戦争による絵画市場の低迷、
若手画家の台頭、
パトロンの逝去、
義母が以前ほど、裕福ではなくなったこと、

などなど、

これらの打撃により
フェルメールは、大量に負債を抱えてしまいます。

大量に負債をなんとかしようと
フェルメールは、必死で駆け回りましたが、
ついに首が回らなくなり、1675年にデルフトで死去しています。


43歳で逝去。死因は、精神的なもの?

フェルメールの死因は、不明ですが、
妻カタリーナの記録によれば、
晩年のフェルメールは、健康を害していて、
ある日は元気かと思えば、ある日は病気、という具合だったようです。

このことから、死因は肉体的な病よりも、
精神的な病だったのではとの推測ができます。

43歳で、その短い生涯を閉じるまで33~36点と
いわれている決して多くはない、
しかし、どれもとても魅力ある作品を残しています。


死後、フェルメールの評価

死後20年以上たった競売でも
フェルメール作品は高値が付けられていました。

しかし、

あまりに寡作だったこと、
作品が個人所蔵だったため公開されていなかったこと、
画風や主題が時代の潮流により軽視されるようになったこと、

などの理由から18世紀に入った途端、
フェルメールの名は急速に忘れられていきました。

その後、19世紀のフランスにおいて、
民衆の日常生活を理想化せずに描く写実主義の
ギュスターヴ・クールベや、ジャン・フランソワ・ミレーが現れたことにより、
17世紀の写実主義を基本としたオランダ絵画が人気を獲得し、
フェルメールが再び高い評価と人気を得ることになったのです。

晩鐘 (1857-1859年)  油彩 ジャン=フランソワ・ミレー


※下の関連記事で、有名絵画の概要や感想・考察を書いています。1作品あたり、1分で読める内容です。油絵だけでなく日本画なども。

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〇フェルメール作品「牛乳を注ぐ女」に見られるポワンティエ技法とは?特徴的な光の表現方法

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