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ラファエロの代表作とは?聖母子像?ルネサンスを代表する画家

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ルネサンスを代表する画家「ラファエロ・サンツィオ」

こんにちは、画家の佐藤功です。

ルネサンスを代表する画家の一人
「ラファエロ・サンツィオ」。
彼は若くして、圧倒的な才能を発揮しますが、
37歳という若さで夭折します。

レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロとともに、
ラファエロ・サンツィオは、
ルネサンスの三大巨匠と言われています。

37年という短い人生でしたが、
多数の作品を残して、
後世の画家にも影響を与えています。

この記事では、ラファエロの代表作の紹介を
彼の生い立ち、影響を受けた画家、
人柄、女性にモテた説、などにも触れて解説します。

子供時代に母と父が死亡若くして才能を発揮

1483年、イタリアの都市国家ウルビーノに生まれたラファエロは、宮廷画家の父から絵の手ほどきをうけました。才能に恵まれていたラファエロは、子供の頃から父の仕事の手伝いをするようになりました。

しかし、ラファエロ 8歳の時に母が死亡、翌年、父は再婚しますが、ラファエロ 11歳の時に父も死亡。義母と妹との暮らしになります。この時期、ラファエロは、特に母を亡くしたときの寂しさや辛さ、苦労を経験しました。このことが、後に画家として、多くの母子像を描くきっかけとなっている、ともいわれています。

そして、14歳頃から当時の実力画家ペルジーノに弟子入りしました。努力家ということもあり、すぐに実力をつけてきます。マスター(絵の師匠の資格)として登録される18歳頃まで修行します。

レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロに影響を受ける

21歳頃から、フィレンツェに拠点を移します。レオナルド・ダ・ビンチやミケランジェロらの当時最先端美術から影響を受け、熱心に研究をします。

下図は、ラファエロが23歳頃に描いた「ベルヴェデーレの聖母」ですが、人物を三角形に配置する構図は、レオナルド・ダ・ビンチの「岩窟の聖母」の影響が見られます。さらに下図のレオナルド・ダ・ビンチの「岩窟の聖母」と比較するとよくわかります。

ラファエロ・サンツィオ 「ベルヴェデーレの聖母」

ラファエロ・サンツィオ 「ベルヴェデーレの聖母」  1506年頃

レオナルド・ダ・ビンチ 「岩窟の聖母」

レオナルド・ダ・ビンチ 「岩窟の聖母」  1483-1486年

<あわせて読みたい>
絵画の構図については、以下の記事で詳しく解説しています。
ご興味の方は、ぜひご覧ください。

聖母子像を数多く制作

ラファエロは、前述の「ベルヴェデーレの聖母」以外にも数多くの聖母子像を描いています。これは、ラファエロが子供時代に母を亡くしたときの寂しさや辛さが影響しているのかもしれません。

下図は、ラファエロの聖母子像の中でも特に有名な「大公の聖母」です。背景は黒いですが、元々は、室内の窓際が描かれていたらしいです。後の時代に背景が黒い方が売りやすいという理由で塗りつぶされたそうです。


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ラファエロ・サンツィオ 「大公の聖母」

ラファエロ・サンツィオ 「大公の聖母」  1506年頃

私は、この「大公の聖母」を実際に鑑賞しましたが、個人的には黒い背景は好きです。黒い方が聖母子の厳かな雰囲気と合っていますし。人物の描写も素晴らしいし重みがありました。

下図は、ラファエロが晩年(30~31歳頃)に描いた最後の聖母子像です。祭壇画の一翼として描かれていました。この作品下部の2人の天使が特に有名です。この天使だけ切り取られて、現代でもポストカードなどになっていますね。

ラファエロ・サンツィオ 「システィーナの聖母」

ラファエロ・サンツィオ 「システィーナの聖母」 1513-1514年頃

ローマ教皇に招かれ、ヴァチカン宮殿の壁画制作

その後、画家として名を揚げたラファエロは、25歳頃に、ローマ教皇に招かれ、ヴァチカン宮殿の壁画の制作チームに加わります。

ところが、ラファエロの壁画の出来があまりに素晴らしかったため、ローマ教皇の命令で既に描き上がっていた壁画も取り壊し、ラファエロは殆どの壁画の制作を任されます。これにより、ラファエロは名声を不動のものとします。

下図は、ヴァチカン宮殿の署名の間という部屋に描かれた「アテナイの学堂」。古代ギリシャの賢人たちが集まって、哲学、天文学、神学を、さまざまに討論し、和解調停している場面が描かれています。

ラファエロ・サンツィオ 「アテネの学堂」  1509-1510年

下図は、ラファエロの最後の作品となった「キリストの変容」です。聖書に書かれている場面を描いていますが、画面上半分には、イエスが白く輝く神としての姿を3人の弟子達に見せる場面(両脇には預言者のモーセとエリヤ)。画面下半分には、悪魔に憑依された少年を治癒する場面が描かれています。

ラファエロ・サンティ 「キリストの変容」 1516-1520年

少し脇道にそれますが、ルネサンス期の巨匠ラファエロの表現について、19世紀イギリスで興った芸術運動(若き画家集団)「ラファエル前派兄弟団」は、批判的な考えを示しています。

この作品「キリストの変容」の表現ついては、イエスの下に倒れ込んでいる3人の弟子たちのポーズが仰々しい、イエスを指差すの群衆のポーズが大げさ。そして、イエスの理想化されすぎた表現が精神性を欠如させている、というような批判をしています。「ラファエル前派兄弟団」の芸術運動の詳細は、以下の記事を参照してください。

<あわせて読みたい>
ラファエル前派とは?大げさに理想化せず自然な表現を|19世紀イギリスの画学生がアカデミーに反発して結成

人柄の良いラファエロ

ラファエロの人物としては、非常に聡明で、礼儀正しく社交的、人に好かれ、弟子の面倒見も良い性格だったようです。短い人生で、評価を得て登り詰め、名声を得たのは、恵まれた出自や絵の才能だけではなく、こういった人柄があったからかもしれませんね。

同じ37歳で生涯を閉じたゴッホは、圧倒的に絵の才能がありながら、気性が激しく人付き合いが下手な性格だったので、存命中に名声を得ることはなく、売れた絵も生涯でたった1枚だったのです。

絵に限らず、どの世界でも同じだと思いますが、才能や実力だけでなく、それを社会に認めてもらうための社交性であったり人柄であったりが重要なんですね。

女性にモテたラファエロ|死因は梅毒か

ラファエロは、37歳で夭折しますが、死因は諸説あり、過労死、熱病、女性関係が激しかったことによる梅毒など。ラファエロは、女性にかなりモテていて、女性が原因で仕事に支障を及ぼす事もあったようです。下図はラファエロの自画像ですが、彼の絵のように優しそうな雰囲気がありますね。

ラファエロ・サンツィオ 「自画像」  1506年頃

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